なんかの日記

精神のデフラグをしている。

2021年の振り返り

4月頃にトラウマのフラッシュバックのような幻聴で生活が立ち行かなくなり、精神科に通った。

「不安障害っぽい形だけど診断基準には満たない程度の何か」と言われ、人生で初めて精神のお薬を飲むことになった。

しばらくはお薬も貰いながらゆるやかに回復していたものの、ある日急にとてつもなく死にたい気持ちが強くなった。
勢いがあれば自殺に踏み切ってしまいそうな不安に襲われて、受診の予約を前倒しして病院に行くと、遠回しに「大したこともないくせに自惚れちゃって気持ち悪いね。」と言われた。

その日は心の底から人生何もかもどうでもいいやと思った。今自殺すれば何一つ思い残すことはないだろうとも思ったが、正直自殺すらどうでもよくて、惰性で生を選んだ。
しばらく時間を置いた後、どうせどうでもいいなら、せめてこの苦しさが何者だったのかを明らかにしてから後のことを考えても別にいいだろう、と思い始めた。手の施しようがなくなった壊れかけのパソコンを、折角だから分解して問題の切り分けだけやっちゃおう、と思うのと同じ感覚だった。

その後、薬で落ち着きつつあった精神状態を「案外あっさり治ってしまった」ということにして通院を終えた私は、結局今まで通り、納得の行くまでこの問題を考え続けることにした。

その後は小さな山と谷を繰り返しながら、それでも時々安心感の素片を拾い集めながら、とりあえず今も生きている。

苦しい

苦しいことをちゃんと苦しいと言う努力をするべきだと思って、今苦しいと思っていることを言葉にして向き合ってみたいと思った。

書いてから見返すと「それは自分がなんとかしないといけないでしょ」というものが大半かもしれない。

でも、私は普段からそれを言い訳にして「苦しい」という感情から逃げていた。そしたらいつの間にか人生が立ち行かなくなる寸前まで来てしまった。

だから今は、誰のせいとか誰がどうしなきゃいけないかとかは一度置いて、苦しい感情そのものに目を向けたいと思った。


人を信じられないのが苦しい。

信じたい人がいるのに、信じられる人がいるのに、トラウマのせいで心から信じられないのが苦しい。

頭が悪いのが苦しい。

すぐ理解出来て然るべきことなのに理解に時間が掛かるのが苦しい。

人に関心を持たれないことが苦しい。褒められることも慰められることもないのが苦しい。そのくせ悪いことはたくさん言われるのが苦しい。ずっとそうだったことも、これからもそうかもしれないことが苦しい。

人に仕事を押し付けられるのが苦しい。それでいて涼しい顔で何事もなかったように流されるのも苦しい。

トラウマが苦しい。思い出すのも嫌だけど、ひとつひとつ嫌な記憶だと思いながら思い出せば少しだけ気が楽かもしれない。

頑張ったことが成果にならなくて、頑張ったことを笑われて、陰口を叩かれて、嫌味をぶつけられて、目上の人間の機嫌を常に伺わないといけなくて、謂れのない批判と罵倒に頭を下げなければならなくて、本当に本当に苦しかった。

人に助けを求められないことが苦しい。そもそも求め方が分からなくて苦しい。求めたところで蹴り飛ばされるような確信があること自体が苦しい。暖かく迎え入れられる感覚が持てないことが心の底から寂しい。

そして、自分がモブのような存在になっていることを自覚して苦しい。周りにいる人はみんな輝いているのに、自分だけいくらでも代わりの効く誰でもいい人間になっていて、だから気軽に使い捨てられているんだと納得出来てしまうことも苦しい。

もう生きている価値も無いんじゃないかって言葉が頭を過ぎることが苦しい。


その「苦しい」が軽くなるまで、私は苦しさに向き合い続けようと思う。

「苦しい」と言えれば良かったのかもしれない。

自分の何が駄目だったんだろうと考えていて、きっと私はどこかで人間性が壊れていたのだろうと初めは思った。(実際その部分はあると思う)

人が怖くなって、人を信じなくなって、結果人から距離を置かれるようにもなって、当然人に心配されたりすることもなくなった。

自分の人生が自分のものである以上、どんな過去があったとしても自分の言動は自分の責任とみなされる。
例え小さい頃の嫌がらせが原因で人を信用出来なくなったとしても、それを誰かが弁護してくれる訳でもなくて、ただ自分が「近付きにくい人物」だと思われてしまうだけだ。

それも、自分に至ってははっきりといじめや虐待と認められている訳でもなくて、精神的な疾患としてもついに診断が下りることはなかった。

…そうやって自分の苦しみを「人に理解させようとする」ような自分の言葉の使い方は正直自分でも嫌だと思う。
だから今日は思っていることをそのまま口にしてみる。


生きているのが辛い。

自分の人生はどこで間違えたんだろう?

何をやっても上手くいかない。

助けを求める方法も分からない。

自分で片付けるべき問題だと思っていたけど、苦しいことを誰にも理解されないのはやっぱり悲しい。

でも……どこでそれを訴えればいいのか分からない!

変に我慢しようと…馬鹿にされると思って、もしくは迷惑だと思って強がってきた手前、今更なんて言えばいいの?

それに、周りの人がそれを支えてくれる人たちだったことに今更気付いて、今まで人を信じていなかった自分はどんな顔を向ければいいの?

人に傷口を見せたら塩を塗り込まれるものだと思っていた。今のコミュニティに行き着くまでそんな人たちしか周りにいなかった。

それは運が悪かっただけ?それで近付きにくい人だと思われるのは自分のせい?

ただ愛されたい。でも弱みに付け込まれて支配されるのは嫌だ。他人に正解を押し付けられるのも嫌だ。

それは贅沢な悩み?そこまで望むのは傲慢?


結局、もっと自分の感情に素直になるべきだったのかもしれない。

こんなに感情を抑えて論理的風に考えるようになったのは多分高校の部活動からだと思う。おそらくそうでもしない限り不安と恐怖で押し潰されていた。

よく考えたら「そうでもしない限り押し潰されるほどの不安と恐怖」って何だよ。そんなにありふれたものじゃないだろう。

つまるところ、自分の人生はどこで間違えたんだろう?に対する答えはきっとこう。

苦しい感情を無いものとして押さえ込むべきじゃなかった。無視をするようにして我慢するべきじゃなかった。苦しいことは苦しいと、はっきり口に出すべきだった。

そして、少し楽になったところで「もう苦しくない」なんて強がらなければよかった……。

私がするべき努力は、苦しいことを「苦しくない」と言う努力じゃなくて、苦しいことを「苦しい」と言う努力だった。

何が駄目だったのだろう

いじめられて、嫌味を言われて、理不尽に怒鳴られて、仕事を押し付けられて、

いつも辛かったのに、いつも何一つ報われなかった。

暖かい輪の中に生きる人たちを後目に、どうして自分だけその外に居るのだろう。どうして自分はその中に入れないのだろう。

自分の人生は、何が間違っていたのだろう。

7/27

時々、自分の人生は何か大きなものが間違っていたんじゃないかと思う時がある。

その一つが昨日の夜から悩んでいる、人に接する恐怖を丸め込みながら生きていることだ。

言葉選びを誤ればすぐに機嫌を損ねることが分かっている相手に向かって、上手い言葉を返すことに神経を使い過ぎたような気がする。かといって接待上手かと言えばそこまででもないけれど。

今は学生の特権、長い長い夏休み。
真正面からこの恐怖に向き合うのも悪くない。
たとえ精神が粉々に壊れても、日常生活への支障は小さい。

だから、今はその恐怖をありのままに感じようと思う。
もし常に強い恐怖を感じることになっても構わない。自覚できないよりはよほどマシだろう。

無題

普段、無意識に視線を逸らしていたものを直視してしまった。

手を伸ばしても今の自分は手に入れられないもの。

能力、自信、コミュニティ、
自我、居場所、自己肯定感、

一体何からどうすればいいのだろう。

精神がバリバリと割れていく音が聞こえた。

どれも誰かから与えられるものではない。それは分かる。
ところで、どうすれば自らそれを得られるのだろう。

今まで自分がやってきた試みのほとんどは失敗に終わった。
何が正解なのか一片も分からない。
それとも分からない段階で人間的に何か大きな欠陥を抱えているのかもしれない。

自分なりに一生懸命生きてきたつもりだけど、それでも上手くいかないのだからきっと自分が悪い。

でも自分には上手くやる方法が分からない。

今の「ありのままの自分」は、人に怯えながら生きている何も出来ない矮小な自分だ。

そう…恐怖、
多分、自分は恐怖を意識出来ないまま普段生きていた。
逆上される恐怖、意にそぐわないことを言って反撃される恐怖、いろんな人から見捨てられる恐怖、関心を持たれずにコミュニティから消えていく恐怖、

それはきっと、自分が半端で弱いから感じる恐怖。

家族に対してさえ感じるその恐怖を押しのけて生きていた。それが今になって限界を迎えた。

明日からどうやって生きればいいのだろう。

薬を飲み忘れた

昨日の夜に飲むはずだった薬を飲み忘れた。

ここ最近は2日に1回のペースだったから、今日は久しぶりに薬の効果がほぼ0になっている。

想像以上に苦しい。薬の離脱症状ということもあるかもしれないけれど、こんなに生きることが苦しいとは思わなかった。

頭の中の顧問にも「お前なんか死ねばいいんだよ!!!」と怒鳴られてしまった。しばらく見なかったのに相変わらず凶暴だ。

応急処置として、余っていた昔の薬(1日3回飲む薬)を飲んだけど、効き方が違うのか自分が慣れてしまったのか、効果は今一つ心許ない。

結局自分は、まだ薬を飲まないとまともな生活すら送れないのかと情けない気持ちが溢れてきた。

最近精神が安定してきたのはトラウマを克服したからなどではなく、ただ単に100%薬のお陰だったのだ。長い苦しみが少しでも報われたなどと一瞬でも思ってしまった自分がひどく醜く馬鹿らしく思えてきた。

うつや不安障害などの診断が出ているならば、それ相応の苦痛があり、それを薬で治療しているのは至極妥当なことだと思う。

しかし、私は病名の診断も降りない程度の、言うなれば少し風邪を拗らせた程度で、毎週病院から強い風邪薬を頂いているようなものだ。

周りの人がそれぞれの苦痛を抱えている中、周りと比べれば自分などきっと大した事はないのに、もはや心療内科に通ってお医者さんと他の患者さんと薬剤師さんの時間を奪っている自分がとてつもなく嫌いになってきた。

いっそ本当に、自分はこの世にはいない方がいいのかもしれない。

だが自殺を実行するほどの根性はなく、安易にトラックに轢かれない程度の危険予測は身につけている。

第一「この世から居なくなりたい」は「死にたい」とは少しニュアンスが違う。ほぼイコールではあるけど、自分という存在が消滅すること自体は正直望んでいない。誰にも存在を認知されず益も害も与えない窒素のような存在になれれば、誰にも迷惑を掛けなくて済むんじゃないか、という感覚に近い。
それに加えて屑みたいな自分への嫌悪感を込めて「この世から居なくなりたい」という表現がしっくり来る。


ここまで書いて、別に引き止められたいからという訳でもなく自殺を仄めかすような文書を自分が書いていたことに少し驚いた。

これがいわゆる「希死観念」というものだろうか。

本当に、誰かに心配してもらいたいとかそういった意図は一切なく、ただただ自分は居ない方がいいのではないかと思った。

「そんなことはないよ」と言われたい訳でもない。いや、でも「そうだそうださっさと死ね」と言われるのは嫌だ。そう考えると「死にたい訳ではないけど自分は今すぐ死ぬべき人間だと思っている」というのが今の感覚の言語化として適切のような気がする。

とはいえ、不特定の誰かに無闇に苦痛を押し付け、救いを要求するほど非礼な行いはしまいと心に誓っている。

かといって、心の底から助けを求められる人が居るかと言えば、正直居ない。お医者さんも忙しいのは分かっているから、特に私のような大したことのない患者の診察は手早く済ませたいだろうし、家族が救ってくれることはきっとない。友達にはむしろこんな苦痛など聞かせたくない。迷惑を掛けたくない。

その意味では、私がここで自殺するのは、最も多くの人に迷惑を掛けることにはなる。

幸いこのブログの訪問者も1ヶ月以上0人なので、私の心の嘔吐物をネットの海に吐き出すことぐらいどうか許して欲しい。

生きていてごめんなさい。