地雷原
薬を飲み始めてから何日か経った。ちょうどその日は朝食の時間があまり取れなくて、昼もバタバタしていて薬を飲み忘れた。
そして、久しぶりに顧問の怒りに触れてしまった。
ちょうど駅のホームを歩いていた時に怒鳴り声がピークに達して、ホーム端の柵にしがみついた。
その日はその一瞬で一旦落ち着くことが出来た。
そういえば、私はどうしていつも部活顧問に怒られているのだろう、と改めて思った。
当時私は何か悪いことしたんだっけ。
部活動は自分なりに真面目に取り組んだつもりだった。でも定期的に合奏やミーティングの場で部活顧問が声を荒らげて怒り狂うことはあって、その度にまるで「人間として当たり前のことが出来ていない」と言わんばかりの強い語調で非難されるのだった。
よく考えると、顧問は「昨日まで何でもなかったことに対して急に激昂する」ことが多かった。
当時私たちは、きっと顧問には何か考えがあって、ある程度の基準のもとで人間的な教育のために私たちを叱ってくださっていると考えていた。
ところが、これまでの怒られた場面を整理していくと、そこにはこれといって一貫性が見られなかった。大抵のケースは「ある日いきなり」だった。
だとすれば、きっと顧問が怒る基準は日替わりで、私たちは毎日、何が顧問の気に障るのか分からない緊張感の中で過ごしていただけなのではなかろうか。
ただ単に地雷原を歩いているだけだったのではなかろうか。
そう考えれば顧問の怒鳴り声がずっと聞こえ続けるのも説明がつく。
つまり私は、自分の普段の行動すべてが「もしかしたら顧問の気に障るかもしれない」という不安に支配されていたと考えられる。
そして気に障ってしまったらその先に何が待っているのか分からない。少なくとも大きな声で罵声を浴びせられるのは確実で、下手したらそのまま練習の機会がなくなったり、大会に出られなくなるかもしれない。
その恐怖が消えないまま今まで来てしまったと解釈すれば、今の自分の状況にも納得が行く。
高校を卒業してから結構な時間が経った。今はもう顧問の目はなく、普段の私の行動は多くの人にとって特に不快なものではないらしいことが分かっている。
もう地雷原はここにはない。
自分の一挙手一投足が顧問の地雷を踏んでしまう危険性を考える必要はもうない。
そう考えると気が楽になってきた。
私が今歩こうと、話そうと、何か作業をしようと、顧問が気に障って殴り込んでくることは絶対にないのだから。
それを境に、顧問の怒鳴り声が常に聞こえることはなくなっていった。